2005年12月27日

『シドニーより』 連載最終回

 こうして戸上氏と彼の亡き大叔父は、真の「終戦」を迎えた。いくつもの苦しみの時と遥かな悲しみの海を乗り越えて。
 が、私はその新聞記事を読みながら驚いていた。昔から見慣れたある人の名前が、その中にあったからだ。三田毅郎――私の父である。風呂敷に包まれていたあの旗に、若き日の父が寄せ書きをしていた。あの晩乗った飛行機の中で私は、その旗のすぐ隣に座っていたのだ。
 私はなぜあの時、旗の実物を見せてもらわなかったのかを悔やんだ。機内か空港のロビーで、そうすることもできたかも知れないのに。いや、それは無理だっただろう。今こうして父の名前があるのを、初めて知ったからこそいえることだ。そう考え直した私は、ようやくマスターしたばかりのパソコンを使って今晩、彼へメールしてみようと思った。旗の寄せ書きの中に実は私の父の名があったこと、あの日飛行機に乗っていたのは父の三十三回忌の法要へ出るためだったことを書き、次に帰国した時には必ず見せてくれるよう頼むために。
 私は水を飲もうとして台所に立った。台所の左手の窓から庭先のテラスを見ると、小さなテーブルの上に携帯ラジオが置き忘れられていた。昨日の日曜の午後、友人を呼んでささやかなパーティーをした時にそこへ置いたまま、私も妻もしまうのを忘れていたらしい。水を一杯飲み干してから、私はテラスへ出た。
 置きっ放しのラジオを手にとり、私はスイッチを入れてみた。もしや雨をかぶっていなかったか不安に思ったからだ。しかし、スイッチを入れるとラジオはいつもと変わりなく鳴り始め、心配は杞憂に終わった。
 そこへ、妻が帰ってきた。庭先に入ってきた彼女の顔を見て、私はラジオを昨日から外に置き忘れていた悪いニュースと、昨秋飛行機で乗り合わせた青年が持っていた遺品の日の丸に本当は父の名が記されていたという良いニュースを教えようとした。が、そう話しかけるより先に、彼女は夕日と逆の方の空を指差した。その方向を見上げると、まだ明るみの残る東の空に大きな虹が弧を描いていた。美しい虹だった。
 その時、付けっ放しにしていたラジオのスピーカーから音楽が聞こえてきた。「蛍の光」のメロディーの、スロー・バラードだ。彼があの時、機内で尋ねた歌はこれではないかと思った。音楽好きの妻に聞くと、クリフ・リチャードの「ミレニアム・プレイヤー」だという。
 私は流れてきたその歌の中の、ある一節に耳を傾けた。

 「私たちの罪をお赦しください
  私たちに罪を為す者を
  私たちが赦すように」

 その一節を聞きながら私は、空に浮かんだ虹が遠く日本まで続いているような、そんな気がしていた。


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2005年12月26日

『シドニーより』 連載第二十六回

陸中日報 二〇〇五年一月五日(水)付
《戦後六十年、豪から里帰り―遺品の日章旗返還、『平和を訴える形見に』と遺族》

 宮古市出身で第二次大戦終結直前にインドネシア・ボルネオ島で戦死した伊藤清治さん(当時二三)が戦地へ携えていった日章旗が、戦後六十年を経て里帰りした。今年一年の仕事始めとなった四日、故人の勤務先の流れをくむいーはとーぶ銀行宮古支店で披露され、関係者が鎮魂の祈りをささげた。日章旗は長年オーストラリアのシドニーで保管され昨年九月、千葉県在住の遺族に返還された。数奇な運命をたどった遺品は、ようやく悲願の帰郷を果たした。
 この日章旗は、伊藤清治さんの実兄左以次(さいじ)さんの孫に当たる広告制作業戸上恭博さん(三八)=宮古市出身、千葉市在住=が「故人がお世話になった勤務先にご報告し、生前のお礼を述べたい」と同支店へ持参したもので、大きさは縦約七十センチ、横約八十センチ。旗の右下に「岩手無盡(むじん)」(同銀行の前身)、右肩には「祈武運長久 伊藤清治君」と記されている。日の丸を囲む寄せ書きには後に社長を務めた故・神田賢次郎氏や故・中田一正氏、元常務の故・三田毅郎氏ら社員数名の名前が確かな筆跡で残り、「勇武」と記された文字は帰還を信じる力強さを物語っている。
 戸上さんは「旗は上質の絹。出征した一九四三(昭和十八)年には調達が難しい品で、会社側が用意してくれたのだろう。心遣いを感じる」と感謝の言葉を伝えた。日章旗を手にした同支店の佐々木浩志支店長は「会社は前途有望な若者の無事を祈り、この旗を持たせたのだろう。終戦後長い年月を経ての帰郷は、強い絆が引き寄せたようだ」と語った。
 清治さんの日章旗はボルネオ島で日本軍と戦ったオーストラリア兵によって拾われ、戦後から今日まで全豪退役軍人協会地域支部の手で保管されていた。最終的には同支部の館内にある戦争資料室に展示され、日豪の悲しい歴史の側面を来訪者に伝えていた。そんな中、九八年十一月に関係者の尽力と本紙記事掲載がきっかけで、清治さんと日章旗のつながりが判明。戸上さんは二〇〇〇年に現地へ出向き、旗を確認して同支部役員らと交流を深めた。その後、昨年九月に返還の求めが認められ、戸上さんが再び現地へ赴き遺品を受け取った。
 戸上さんは「こうして里帰りができたのも、多くの人たちのおかげ。宮古へ着いた時、旗を前にして『お疲れさまでした』という言葉が思わず出た」と安堵する。日章旗は戸上さんが今後も保管し、「形見として大切に扱い、平和の尊さを伝えていきたい」と語った。
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2005年12月25日

『シドニーより』 連載第二十五回

 彼と出会った時の話は、これで終わりである。手紙を出すことを約束した私だったが、シドニーへ戻った後、雑事に忙殺されてなかなか出せないでいた。年が変わり、こちらでは冬本番の八月になってから、これではいけないと思い、ようやく手紙を書いて送った。今日届いた手紙は、その返事だ。
 彼からの手紙には、帰国後のことが綴られていた。東京にいる身内を集めて遺品の報告をした後、なかなか宮古へ行く機会が作れず、やっと年が明けてから帰郷して、故人の勤務先だった支店へ約束どおり旗の実物を携えて再訪したこと。先達ての八月の旧盆には、先祖代々の墓前に遺品の帰還をようやく報告したことなどが書かれていた。年明けの支店の訪問には遺品の第一報と続報を報じた新聞記者も同行し、四年前に面会した副支店長は別の支店へ異動していたものの現在の支店長・副支店長が快く応対してくれ、その時の出来事が新聞に報じられたので記事のコピーを同封したということだった。
 それから、手紙には成田へ着いた時の「動く歩道」でのことも綴られていた。
 あの時、彼は朝のまぶしい光の中で足を進めながら、遺品が返還されるまでにあったいろいろなことを想い出していたという。ずっと願い続けてきたことが叶い、自分にとっても新しい人生の一日が始まるような気がした。この先いろいろなことがあるかも知れないが、乗り越えたりやり直したりできるし、そうして自分の人生は続いていく。しかし、自分が手にしているこの旗の持ち主、大叔父の人生はどうだろう。やり直すことは、もう二度とできない。でも、その遺族の一人である自分は、こうして人生を続けていく。自分が彼の生まれ変わりなのかはわからない。けれども、そんな風にして「人の生」は続いていく――。と、その時、最後の晩に泊めてもらった家の主、マクレガー女史の言葉を想い出した。ライフ・イズ・サークル。彼女は、今この瞬間に自分が強く感じていること、それを自分に伝えたかったのではないか。それに気づいたら思わず込み上げてきて、涙をこらえるためにわざと脇にそれて歩いていたのだと、彼はその時の胸の内を書いていた。
 私は手紙を一字一句読み終えると、見出しと写真だけ先に目にしていた新聞のコピーを読み始めた。彼の大叔父と、私がまだ高校生の時に脳溢血で急死した父とが同じ銀行へ勤めていたことを想い出しつつ、記事の文面を追っていった。
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2005年12月24日

『シドニーより』 連載第二十四回

 彼と話し終わった後、いつのまにか私はまどろんでいた。が、にわかに機内が騒がしくなり、眠い目を開けるとブラインドの上がった窓から朝の陽光が差し込んでいた。到着までには少し時間があり、本当はまだ眠っていたかったが、身支度をする乗客が慌しく通路を行き交い始め、私は再びまどろむことはできなかった。ぼんやりしているうちに、キャビンアテンダントが朝食の準備を始め、その後機内での最後の食事を私たちは済ませた。一服してしばらくすると、飛行機は着陸に向けて高度を下げ始めた。
 成田へは定刻通りに到着した。一夜の仮の宿となった機内を出て、私たちは新しい一日が始まったばかりの日本の空気を吸った。戸上氏は遺品の入った風呂敷包みを左の腕にしっかり抱え、私たち夫婦と一緒に入国審査へ向かうべく「動く歩道」に乗った。その長い歩道の右手の窓越しに、初秋の朝のまぶしい光に包まれた駐機中の飛行機が見えていた。
 そうして「動く歩道」を中ほどまで進んだ辺りだったろうか。彼は乗っていた歩道を急に下り、並行して伸びる通路の隅を一人歩み始めた。その時妻と話をしていた私は声をかける間もなく、彼の姿を目で追うばかりだった。彼は時折咳き込みながら、ポケットから出したハンカチを口元や鼻に当てて歩いていた。が、「動く歩道」が終わる頃にはハンカチをしまい、何事もなかったように足を進めていた。
 入国審査の手続きを終えると、バゲッジクレームへ向かった。彼も一緒だ。ベルトの上を流れてくる手荷物を注視しながら、私は彼に話しかけた。
「さっきは、どうかしましたか。大丈夫ですか?」
「いえ、別に。大丈夫です」
 彼は私と同じようにベルトへ目をやりながら答えた。そのやりとりがあってまもなく、彼の荷物が私と妻のより先に出てきた。彼は流れてきた大きなトラベルバッグを受け取った。
 私たちの荷物は、なぜかすぐには出て来なかった。
「もし荷物がそれだけだったら、先に行かれても構いませんよ。私たちのは、何だかなかなか出て来ないから。それに、お疲れでしょう。六十年ぶりに還ってきた遺品もあるんですから、早くお帰りになるといい。この後は、すぐに宮古へ行かれるんですか?」
 と私が気づかっていうと、彼は答えた。
「いえ、まず自分の家に戻ります。宮古へもいずれ必ず遺品を持って行かないといけないんですが、その前に東京に住んでる母方の身内を集めて報告を済ませてからですね。でもよく考えたら、母の代と私の代、その下の代も集めると、二十人くらいになるんですよ。全員のスケジュールを合わせるのはそう簡単じゃないから、そうすると宮古へは一体いつになるのか……。といっても、同じ国の中ですからね。オーストラリアへ行くのよりは、訳ないですが」
「そうだね。半日もあれば着く訳だから、ずっと楽だ。あんな飛行機みたいに長い時間揺られて、一晩過ごす必要はない」
 私たちは苦笑した。
「そうだ、手紙を出してもいいかな。すぐには出せないが家に、シドニーに帰ってから手紙を書きたいな。あいにく私は、パソコンとかメールが苦手なものでね。あなたの連絡先を教えてくれませんか」
 私は彼に申し出た。「ええ、どうぞ。構いませんよ」といいながら彼はバッグから名刺入れを出し、名刺を一枚抜き出して私に手渡した。
「……それじゃあ、私はこれで。済みませんが、お先に失礼します」
 彼がいった。
「ああ、どうぞ。あなたもお疲れでしょう。でも、遺品が還って本当によかった。おめでとう。お元気で。手紙、後で書いて送りますよ」
 私は彼に手を差し出し、軽く握手を交わした。その後、彼は側にいた妻に手を振り、空港の雑踏の中へ消えていった。現代風の空港ロビーには不似合いな、紺地の風呂敷包みを大切に抱えながら――。
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2005年12月23日

『シドニーより』 連載第二十三回

 四年前、彼はある映画を偶然に観て、その時のふとした思いつきから最初のシドニー訪問を実現させた。その行動が今こうしてようやく実を結び、あと数時間で遺品は六十年ぶりに母国へ還る。四年前に映画監督へかけた電話で彼は、「トニー・グリン神父の活動を今も引き継いでいる人物はいないだろうか」と尋ねた。その時の答えは「今もどこかにいるだろう。しかし、わからない」だったが、私には「確かに今もいたのだ」と思えてきた。誰かが引き継いだのではなく、亡くなった神父の魂自らが――。私は、そう彼に話しかけようとして止めた。それは彼自身が、一番強くそう感じているであろうことに気づいたから。
「……それが昨日、いやもう一昨日か。日曜にあって、その後昨日の月曜にこの飛行機へ乗った訳ですね。ということは、空港へは教会のゲストハウスから直接?」
 私の問いかけに、彼は首を振った。
「シドニーへ着いてから土曜の晩まではゲストハウスに泊まったんですが、最後の日曜の晩だけ違う所に泊まりました。その日の午後から夜遅くにかけて、フィル神父のご予定がびっしりで、夕食の用意すらできないということでしたので」
「というと、一晩だけホテルかどこかに?」
「いえ、フィル神父のご紹介で、お知り合いのマクレガーさんというかたのお宅へ厄介になりました。伺う前はよく知らされてなかったんですが、この方は茶道の先生をしてらして、日本語こそ達者じゃないけど大変な日本通だったんです」
「ほう……」
「私が生まれる前ですが一時期、日本に住んでたこともあるそうで、息子さんもその時に日本で産んだとおっしゃってました。お邪魔する前は正直少し不安だったんですが、行ってみてびっくりです。書斎には日本の本がたくさんあるし、おまけに和風の庭も茶室もある。茶室の縁側に座って庭の小さな竹林を眺めていると、本当は火曜の朝に帰国する予定なのに、もう日本へ着いてしまったような、そんな錯覚も感じるほどで。とにかくほっとする居心地のいいお宅で、温かくもてなしてもらいました」
 彼は一息ついて話を続けた。
「茶室に案内していただいた時、床の間の花瓶に花が生けてありました。つぼみのままの花と、咲いたばかりの花、それと枯れてしおれてしまった花が生けてあったんです。枯れてしまったのは最近ここで茶会をしたばかりで、そのままになってたのがしおれたのかなと私は思いました。でも、本当はそうじゃなかった……。実はマクレガーさんは友人のフィル神父から旗が返還されずにいる話を聞いて、ご自分も退役軍人協会の説得を続けてらしたそうなんです。実は金曜の返還式典にお見えになっていたことも、後から知りました。そんな縁で神父から家に泊めるのを相談されて喜んでOKしたのだ、と。それだけでも大変ありがたいのに式典の翌日、お仲間と茶会を開かれたそうです、旗の返還のお祝いを兼ねて。床の間の花は、その時の名残だと教えてくれました。そして、わざとああいう風に生けたのだと」
「どういうことですか、それは?」
「花はつぼみから成長して開き、咲き誇った後、枯れてしおれてゆく。その花はそれで終わりだけど、時が経つと違う草木が新しいつぼみをつけて花を開き、そしたまた枯れてゆく。草木はそれを永遠に繰り返し続け、全ての命も同じようにその繰り返しを永遠に続けていく。ちょうど、命という輪を描き続けるように。そのことを表現したくて、あんな風に生けてみたのだと。ライフ・イズ・サークル、そういってマクレガーさんは説明してくれました」
「生命の輪廻か。深い意味があったんですね、その花には……」
 そこで私たちは少しの間、沈黙した。その時、何かを思い出しでもしたかのように、窓際の座席へ移った若夫婦の赤ん坊がむずかり、小さな泣き声を上げた。すぐさま母親があやし、赤ん坊はすぐに泣き止んで再び眠りについた。
「そろそろ私たちも寝ましょうか。といっても、今からだと少しだけですが」
 彼がいった。
「話の方は、それで全部ですか?」
「私の話はこれで全部です……。そうだ。そういえば昨夜マクレガーさんの家で寝る時、ちょっと不思議というか、こんなことがありました。日本から持ってきた自分の携帯ラジオを聞きながら床に入って、いろいろ考えてたんです。今までのこととか。本当にいろいろあったけど、やっと明日には日本へ旗を持って帰れるんだなと思った時でした。ラジオから、ある歌が流れてきたんです。最初は気づかなかったんですが、よく聞くとそのメロディーは卒業式で歌ったり閉店の時にかかったりする、あの歌だったんです」
「ああ、『蛍の光』?」
「それです。もちろん歌詞は英語でしたがバラード調に、ポップス風にアレンジされてました。あの歌、元々は確かスコットランドの民謡でしたよね。たぶん誰かのカバー曲だと思うんですが、男性の歌手の。ご存じありませんか、その曲?」
「さあ……」
 音楽については人並み程度の趣味と知識しか持ち合わせてない私は、唐突な彼の質問にそう答えるしかなかった。
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2005年12月22日

『シドニーより』 連載第二十二回

 私は思った。もし彼の大叔父が生きて復員し今日まで健在だったとしたら、取り壊しの話を聞いてどうしただろう。自分の生家である。仮にどこか別の家に住んで生活していたとしても、その決定を聞いて何もせずにいただろうか? いや、そんなことはないだろう。話を聞きつけ、もう一度よく検討してみるよう助言するのではなかろうか。『壊すのは簡単、いつでもできる』といって。確かに、彼の大叔父は生きて還っては来なかった。だが、唯一の遺品で長い間返されずにいた日章旗が、生家の取り壊される寸前に返還が決まった。まるで、まだ生家のあるうちに急いで帰郷しようとするかのように。ただの古びた布切れといえばそれまでだが、私には隣の席にあるその旗が故人の意志そのもののようにも思えた。
 私は彼に尋ねた。
「返還のセレモニーは、どうでしたか?」
「月並みな感想ですが、とても嬉しかったです。前回の訪問から四年ぶりにクラブハウスへ行き、式典の会場になった二階の大きな部屋へ上がりました。会場に着いたら、必ず最初にキャリーさんとホワイトさんに礼をいおうと思ってました。部屋へ入ると既に協会のメンバーやそのご家族、協会の関係者のかたが大勢見えてました。私はお二人とも部屋の真ん中や前の方にいるものだと思ってたんです。だって、この旗の返還を最初にメンバーに提案して、その後大変ご苦労されたんですから。現在は支部長・副支部長は違う方に代わられましたが、それでも返還のキーマンには変わりありません。そう思ってお二人の姿を探したんですが、予想した辺りではなく部屋の隅の方にいらっしゃるのを見つけました。まるで、『自分らは特に何もしてないから、今日は主役じゃない』とでもいいたげに。その姿を見つけて、私は歩み寄りました」
「……」
「いろいろ挨拶やお礼の言葉を考えていたんですが、ホワイトさんのお顔を見たら、なぜか言葉が出なくなってしまって。手を差し出して握手を交わし、肩を叩き合うだけでいっぱいでした。前回お会いした時には多弁な印象があったホワイトさんも無言で握手したまま、言葉がなかった。数秒の間そうしてましたが、すぐにホワイトさんの間近に、キャリーさんがいるのに気づきました。彼の名を呼んで近づき、『サンキュー・ソー・マッチ』といいながら握手を交わしましたが、やっぱりそれ以上言葉が出なかった。私もキャリーさんも」
 彼の目には少し光るものがあった。
「その後、式典がすぐに始まりましたが、当日はグリン神父に同行してもらいました。今回の返還の決定と訪問をお話したら、教会のゲストハウスを宿に提供していただいて、大変お世話になりました。式典には返還を最初に持ちかけられた井原さん、四年前の訪問の時に同行していただいた梅田さんとそのお母様も一緒にお見えになってくれました。その日は、たぶん今までの人生の中で『ありがとうございます』を一番多くいった日だったと思います。それ以外、それ以上、自分の気持ちを正直に表現できる言葉はなかった。式典の中で挨拶を求められたんですが、感動したのと緊張であまり気の利いたことはいえませんでした。ただ、『最初の知らせから今日まで六年かかりましたが、皆様の中には戦争から六十年もの間、辛い想い出を抱えてきたかたもいらっしゃる。それと比べたら、私が待った六年間は短いものです』と、神父に通訳してもらっていいました。その挨拶の時に、日本国憲法の英訳本を今の支部会長にお贈りして、第九条を説明しました」
「戦争の放棄ですね」
「ええ。『憲法の第九条で日本はもう二度と戦争を起こさないことを誓っています。安心してください』と」
「その本は日本から持っていったんですか?」
「遺品を返してもらうことが前もってわかってましたから、何かお礼がわりに贈り物をしたいと思ったんです。何がいいかを考えていて、『オーストラリアの人たちは日本が憲法で戦争を放棄してるのを知ってるかな』と思いました。逆に、『我々日本人はオーストラリアの憲法を知らない訳だから、恐らくオーストラリアの人も日本の憲法のことを知らないはずだ。じゃあ、憲法の英訳本を贈ろう』と。でも、本だけでは物足りないような気がしたので、名入りの置時計も贈りました。『遺品返還御礼、遺族一同』と入れて」
「これからは平和の時を刻んでいきましょう、というわけですね」
「おっしゃるとおりです。それからキャリーさんとホワイトさんにも、日本から持参した贈り物を渡しました。キャリーさんには平和の『和』の文字が書かれた掛け軸、ホワイトさんには桜の木で作ったコーヒートレーを。桜は死んだ人の魂を慰めるために植えたり、花が咲くと生きてる人たちが花見をしますよね、宴を開いて。それで選びました」
「なるほど。それはいい」
「あと、宿を貸してくれたグリン神父には風鈴を贈りました。岩手の名物の南部風鈴を。平和の鐘ならぬ平和の風鈴です……。泊めていただいたのは教会の中のゲストハウスだったんですが、昨日の日曜日は教会の聖堂で礼拝があって、私は信者ではないんですが特別に参加させてもらいました。その礼拝でシドニー在住の日本人の信者の皆さんから返還のお祝いをしていただきました。聖堂で見たその時の情景が、返還の知らせが来る前に夢で見た、ちょうどその場面でした」
「ああ……」
「礼拝の後、皆さんが持ち寄った料理を囲んで昼食会になり、私もご馳走になりました。神父はその日、他の教会へ行く用事があるとかで昼食会には出席せず、すでに出かけられました。実は神父とは今回そこでお別れしましたが、昼食会の席でフィル・グリン神父のすぐ上のお兄様が今年亡くなられていたのを聞きました。それで、教会の墓地にあるその墓を昼食会の後、皆さんでお参りに行くことになり、私も同行させてもらいました。神父には大変お世話になってきましたからね。ところが、墓地へ着くと目当ての墓がどうしても見つからず、その代わりにトニー・グリン神父の墓がすぐにわかったんです。今回の訪問で、ある時フィル神父と話していて、以前奈良にも分骨していたトニー神父のお骨を最近オーストラリアに引き取ったことを聞いてました。でも、それもやはり故郷のリズモアのことだと思ってましたから、この教会に、しかも自分の目の前の墓にあると知って驚きました。結局、その時は肝心の兄上の墓はどうしてもわからなくて、代わりといっては何ですがトニー神父の墓を皆さんとお参りして帰りました。できればいずれトニー神父の墓にもお参りして、お礼を申し上げたいと思ってましたから、私は嬉しかった。その時のことも後で考えると何だか導かれてたような、そんな気がします」
 と彼はいった。
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2005年12月21日

『シドニーより』 連載第二十一回

 私たちを乗せた飛行機は、安定したフライトを続けていた。満天の星空の下、いや星空の中を飛んでいるはずだが、通路に挟まれた私の席からは直接、窓の外は見えない。近くの窓際の席の方へ目をやってみたが、既にブラインドが下ろされ、その席の乗客は眠りについていた。他の乗客も大半が夢路をたどっているようで、先ほどまで何度となく機内を見回わっていたキャビンアテンダントも、しばらく姿を見せなくなった。まだこうして眠らずにいる私たちは、何かぽつねんと取り残されたような気がした。しかし、その間にも飛行機は、六十年ぶりに持ち主の遺族へ返された一枚の日の丸とそれにまつわる人々の想いを乗せて、母国へ少しずつ近づいていた。あと数時間で夜が明ける。
「すっかり話し込んでしまいましたね。三時間もすれば朝ですよ。もうすぐ日本だ」
 と私はいった。
「大丈夫ですか?」
 彼は私の体を気づかった。
「私は平気です。あなたの方は?」
「私も大丈夫です。家に着いて眠たくなったら、少し昼寝でもします」
 といい、彼は笑った。
「フライトもあと少しか。話をそこまで聞いたら、最後まで聞きたくなりましたよ。いいですか、話してもらっても?」
「ええ。乗りかかった舟、いや、この場合は飛行機かな……はは」
 私と彼は顔を見合わせ、軽く笑った。それから、彼は話を続けた。
「正式に返還が決まったのは今年になってからです。実は六月頃、フィル・グリン神父から翌月に日本へ行くという連絡を受けました。その時に、『できればあの旗も一緒に日本へ持って行けるように、あなたへ返せるようにしたい。来日前にもう一度、退役軍人協会を説得してみる』と話してくれました。私はグリン神父の申し出に感謝しました。それからしばらくして、神父の来日が近づいてきた頃に再び連絡がありました。『説得してみたが、駄目だった。期待させてしまって申し訳ない』と」
「うーん……」
「私の方は過剰な期待とか楽観はしてなかったので、それほどがっかりはしませんでした。もうこれだけ時間がかかってるから、あとはどれだけ待とうが同じという、そんな開き直りもありましたしね。ただ、その時の連絡で、『私の来日には間に合わないが、どうも返還の検討は続いているようだ』とも話してくれました。後で知りましたが、シドニー・モーニング・ヘラルドの記事にあったように、神父の説得があった頃、退役軍人協会のメンバーで投票をしたそうです、返還するかどうかを。しかし、その投票で反対されたかたの説得を内部で続けていたので、公式に返還が決まらなかったという風に聞きました。それと……グリン神父から来日の連絡を受ける前だったんですが、ある晩夢を見たんです」
「夢?」
「ええ。その夢の中で、私は一度訪れたシドニーにいました。どこかの教会の聖堂の中にいて、ちょうど礼拝が行われ、見知らぬシスターや神父が集まって祈りを捧げていました。それだけの夢ですが……。翌朝目覚めてからその夢を思い出して、『なんであんな夢を見たんだろう。ひょっとして、近いうちにまたシドニーへ行くことになるかな』と思いました。ただ、その後グリン神父から連絡があったので、『あれは立場が逆になった正夢だったんだな』と思ってたんです。でも、そうじゃなかった……。ちょうど先月、八月の九日です。長崎の原爆記念日ですね。その晩、シドニーからメールが来ました」
「ホワイトさんからですね」
「ええ。そのメールには『今までで一番いい知らせです。旗を返還することが決まりました』とありました。そして、もしシドニーに来られるなら協会のクラブハウスでセレモニーを開きたいと書いてありました」
「夢は正夢で、現実になったんですね。よかった」
「ありがとうございます。ただ……」
「ただ?」
「これも偶然なんですかね……。シドニーからメールが来る少し前でしたが、宮古の祖母の家を取り壊すことが決まったんです」
「えっ……」
「前々から、そういう話はあったんです。古い家でしたし、やはり誰も住まなくなると痛みも進んで。それで、その夏のお盆明けに取り壊すことになったと、親戚から連絡を受けました」
「でも、代わりの家はあるんでしょう?」
 彼は首を横に振った。
「祖父母の下の代の人間は、誰も宮古では生活していません。だからみんなで考えた末、代わりの家はもう必要ないだろう、と。先月の旧盆が、その家で過ごせる最後になりました」
「じゃ、旗のほうはどうしたんです? 取り壊しまで間に合うように、宮古に送ってもらうようにしたんですか」
「それも考えました。でも、向こうは国内じゃなくて海外です。やはり届くまでに、一週間以上かかりそうだった。仮に送ってもらうように連絡しても、取り壊しの後に届きかねない。それでは意味がない。急いで飛行機のチケットを手配して自分がシドニーへ行き、とんぼ帰りして宮古へ持ってくることも考えましたが、それも間に合いそうになかった。それで結局その翌月に、こうしてシドニーまで出向いて受け取りに行くことにしたんです。本当はもう少し早くお盆明けにでも行こうと思ったんですが、仕事の都合が合わなくて九月になってしまいました」
「……それで今こうして遺品を携えて、日本へ帰る飛行機に乗ってる訳か」
「ええ。でも、それも運命なんでしょうね。終戦のわずか十二日前で亡くなってしまったのも、遺品の返還が決まった時分に家の取り壊しが決まったのも。大叔父の、私たち遺族の運命なんでしょうね、やはり……」
 彼は自分へいい聞かせるようにいった。私は彼に何というべきか、言葉が見つからなかった。
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2005年12月20日

『シドニーより』 連載第二十回

四年前の訪問の後、動きは何もなかったんですか? 返還については」
 私は彼に問うた。
「ええ、特に何も。ひたすら待つだけでした。私たち遺族にできるのは、それしかなかった。ただ、その時の訪問がきっかけで、フィル・グリン神父と手紙をやりとりするようになり、退役軍人協会への説得を買って出ていただいたのは、さっき話したとおりです。それから、退役軍人協会のホワイトさんとも折にふれてメールを交換するようになりました。グリン神父は日本語が堪能ですから手紙を日本語で書いても全然問題ないんですが、ホワイトさんは全く日本語がわからない。それで何とか自己流、独学で英語でメールを書いてやりとりしてます、今も。下手な英語ですが」
 彼は苦笑しながらいった。
「でも、その手紙やメールで旗の返還のことを訴えたりは?」
「いえ、全くしてません。確かに旗のことに少し触れたりはしましたが、『返してくれ』とずばり書いたことは一度もありません。というか、それは書けなかった」
「わかりますよ。キャリー氏やホワイト氏を、余計に苦しめたくなかったからですよね?」
「ええ。だから手紙もメールも、もっぱら内容は近況報告、季節の挨拶でした。でも、そんな内容だけでも構わなかった。そうすることで旗は忘れ去られないし、私も忘れない。そう信じて、やりとりを続けました。でも……その間に実は一回だけ、返還を訴えるチャンスが日本であったんです」
「日本でですか?」
「一昨年になりますが、退役軍人協会の代表団が初めて来日したんです。日本政府の招待で。新聞でそのニュースを知ったんですが、協会の首脳陣がその代表団に参加しているということでした。それで、こう思ったんです。『この人たちに何とか面会して、旗の返還を直接訴えられないか』と。来日するのはトップクラスのかたばかりですから、その方々に直訴すれば何とかなるんじゃないかと思ったんです」
「上の人に直接賛同を得て、返還の決定をトップダウンしてもらおう、というわけか……」
「そこで、まずオーストラリア大使館に電話してみましたが、『そのニュースは初めて知りました。いつ来るんですか』と逆に聞かれました。これには、ちょっと意外でしたが」
 彼は再び苦笑した。
「そういうわけで、大使館には来日の情報がまだ入ってないことがわかったので、それじゃあ、招待する側の政府、外務省あたりに聞いてみようと思いました。そっちは招く側だから知らない訳がないし、第一自分の国の政府だから事情を話せば何か教えてくれるはずだと思ったんです。でも、外務省の代表の電話番号を調べて、ダイヤルしかけたところで手を止めました。その後も電話しなかった……」
「どうしてまた?」
「そこで電話して事情を話してたら、何か連絡をつけてくれたかも知れません。実際に面会することができて、幹部のかたに話できたかも知れない。旗の返還をその場で心から訴えれば賛同を得られて、トップダウンしてもらえたかも知れません。確かにそれで返還されれば、私たち遺族は何もいうことはない。そのために、返還を待ち望んでる訳ですから。でも、そうなった時、キャリーさんやホワイトさん、彼らの立場はどうなるだろうか、と。支部の中では反対を受け、上からは返還を指示されて……また板ばさみになりかねない。それに気がついたら、どうしても電話できませんでした」
 日本人にとって、自分の意見をあからさまに主張するのは美徳ではないという考え方がある。彼はそれを辛抱強く、数年間にわたって実践し続けたことになる。しかし、彼は美徳を守るためだけにそうしたのではない。住む国も使う言葉も違う人々の「気持ち」を思いやってしたのだ。
「でも、メールや手紙でやりとりするうち、逆に不審に思われたかも知れませんね。『どうして彼は一番肝心なことを、一言もいわないんだ』と。もし自分がその立場だったら、そう思いますよ」
 彼はこういって笑った。
posted by Yasuhiko Kambe at 16:07| シドニーより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月19日

『シドニーより』 連載第十九回

 終戦後六十年という歳月が、当時まだ子供や若者だった人々を否応なく老境へ、さらに終焉へと追いやっていた。この旗の返還がもう少し早く実現していたら。いや、それが四年前に一度、彼がシドニーを訪問した時に実現していたら。歴史に「もし」は禁句だという。その歴史とは社会の動きだけを指すものだと、私は思っていた。しかし、人の歴史もまた例外ではなかったのだと、その時痛切に感じずにはいられなかった。時として歴史は、非情な振る舞いをする――。
 彼が口を開いた。
「偶然とかって、本当に時々『どうして?』って思いたくなりますよね。いたずらにしてはあまりにも、っていうような……。旗の写真が入った額の裏に、旗を拾ったビナード氏の略歴が記されてました。全文英語でしたが、後で自分で何とか翻訳してみたんです。その中に彼の軍歴が紹介されていて、軍の認識番号も書かれてました。それからしばらくして、インターネットであるサイトを見つけました。オーストラリア軍に軍歴が会った人についての公式データベースです。はじめは気づかなかったんですが、そのサイトには検索機能があって、名前や認識番号を入力すると軍歴や個人情報の抜粋がある程度わかるようになってました。それで、ある時ふと思いついたんです。ビナード氏の認識番号を入力してみたら、どういう結果が出るだろう、と。番号を入力し検索してみて、驚きました。彼の誕生日は、一九一六年の七月二十三日だったんです」
「それが何か?」
「私と、同じ日です」
「えっ、誕生日が? そんなこと……。それ、本当ですか?」
「私は一九六六年の七月二十三日生まれです。ちょうど半世紀前の同じ日が、彼の誕生日だったんです」
 私は絶句した。昔その旗を拾った人間と今その旗を引き取って帰る人間が、同じ日の生まれだとは何という偶然の一致だろう。
 不思議な運命、不思議な偶然がこの旗をめぐる人々を取り巻いていると、私は思った。いや、それは偶然ではなく、本当は必然なのかも知れない。旗の持ち主である彼の大叔父、そして祖母と叔母、さらに第一報でそれに気づいた西条氏は日本の岩手にある宮古にいた。そこから百キロ西へ離れた盛岡にオーストラリアから相談を受けた岩手中央高校があり、その五百キロ南の東京や千葉に彼と彼の家族が住んでいる。その日本から対馬海峡を隔てた先に韓国があり、旗の文字をシドニーで読んだキャリー氏の長男の義母がいる。そして、日本の遥か南に旗の持ち主が没したボルネオがあり、そのさらに南にキャリー氏とホワイト氏、井原氏と梅田氏、フィル・グリン神父が暮らす、旗の保管されていたシドニーがある。皆がそれぞれ数百キロ、数千キロという単位で離れているのだ。そんな人々が、ある一枚の旗で結びついていた。しかも、それは現代のものではなく六十年も昔のものである。
 国境と時代を越えた目に見えない壮大な天の配剤を、私はその時感じずにはいられなかった。
posted by Yasuhiko Kambe at 15:21| シドニーより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月18日

『シドニーより』 連載第十八回

「梅田さんとはその日が初対面で、その時までトニー・グリン神父のことは一切話してません。シドニーへ行く前のメールのやりとりも井原さんとしてましたから、その日にお会いしたのが本当に初めてだったんです。梅田さんはその日、井原さんの都合が悪くなってたまたま代役になっただけでしたが、井原さんはグリン神父の弟さんとは面識がなく、代役の梅田さんが知り合いだった。そのことも当時、井原さんは全然知らなかったそうです。それに、井原さんとのメールのやりとりで、私は映画のこともグリン神父のことも全く書いてません」
「……」
「その話の後、弟さんのいる教会を訪ねてみようということになりました。そのまま、その足で。実は弟さんのフィル・グリンさんも、お兄さんと同じカトリックの神父で日本へも赴任され、現在はシドニーの教会にいらっしゃいます。映画の中で弟さんのことも少し触れられてましたが、シドニーにいることはいってなかった。私はてっきり故郷のリズモアにいらっしゃるものと思い込んでましたから、今この街に住んでると梅田さんから聞いて驚きました。ただ、その時しきりに梅田さんが気にしてたのは、『多忙なかたなので、急に訪ねて行って必ずいるかどうかわからない』ということでした」
「アポイントメントなしだと会えないかも知れない、と?」
「ところが、その日は偶然教会にいらっしゃって、お会いすることができました。突然の訪問でしたが温かく歓迎してもらい、私はシドニー訪問のいきさつを話しました。きっかけを作ってくれた映画に描かれたかたの、弟さんに向かって……。その時、何だか不思議な感じがしたのを覚えてます。初めて会ったかたなのに、何ていうか、以前に何回か訪ねて会ったことがあるような……そんな、穏やかな懐かしさです」
 彼は少し遠くを見るような目をした。
「その時の訪問で遺品が返還されなかったことを話すと、神父は『とても残念に思う』と嘆かれました。そして、亡くなった大叔父のために、その場で『お祈り』を捧げていただきました。私はカトリック信者ではありませんが、そのお気持ちが嬉しかったし、とてもありがたかった。その時のことが縁で、退役軍人協会の説得をご自分からしていただいたり、ミサの時には『お祈り』も捧げていただきました。そうして教会を後にしてから私と梅田さんは夕食をとり、その晩、ちょうどシドニーのシティで行われていたグリン神父の映画の上映会へ出かけました。そこで、その映画を改めて見て思いました。『ああ、自分は導かれてきたんだな』と」
「亡くなったトニー・グリン神父に、ですね」
 彼は頷いた。
「日本に戻った後、私は宮古へ行きました。キャリーさんから贈られた額入りの写真を持ってです。帰りの飛行機の中で、『もし仮に自分が大叔父本人だとして、生きて日本へ帰ったらまず何がしたいだろう』と、ふと考えたんです。決まってますよね。自分の故郷、家に帰りたいに決まってる。実物は返還されなかったけど、せめて写真でも帰郷させたいと思ったんです」
「ああ……」
「宮古へ着いて祖母の家に向かいましたが、その前に買物がてら少し寄り道をしたんです。その道すがら、それまで全く考えてなかったんですが、大叔父が勤めていた銀行の支店を訪ねてみようと思いました。ちょうど寄り道の途中に、その支店があるのを思い出したんです。うまい具合にその日は平日で、まだ窓口が閉まる三時になってなかった。それで、これもいきなりだけど行ってみようと。訪ねてみて、『残念ですが、その話はよく存じません』といわれたら、素直に立ち去ればいいと思って。で、行ってみたら副支店長のかたに対応していただいて、話をしたら日章旗のことを覚えておいででした。何でも第一報続報があった頃、銀行の社内報でもとりあげられたそうで、それで覚えておられた。本当に突然でしたが、私の訪問を喜んでくれました。その席で続報の後からシドニーへ訪問するまでのいきさつを説明して、実物は返還されなかったけど代わりに額入りの写真を贈られたことを話しました。その写真をお見せしながら。別れ際に副支店長が、『もし実物が返還されたら、できればもう一度うちへ来て見せてほしい』と申されたので、もちろん私も約束をしました」
「日本に着いたら、その約束を果たさないといけませんね」
「そのつもりです、必ずいずれ……。その後、支店を失礼して、祖母の家に行きました。祖父はとうに亡くなり、元気だった祖母もその頃は体が衰え始めていて、老人向けの特別養護施設に入ってました。私の母も母の兄弟も今は全員東京で暮らしていて、旧盆の墓参りで帰省する時以外、家にはもう誰も住んでませんでしたが、それでも亡くなった大叔父にとって故郷の家に違いありません」
「……」
「それから、宮古に着いたら必ず会って、お話がてらお礼をいわなくてはと、思っていたかたがいました。第一報を見て連絡をくれた西条さんです。続報の取材の時に居合わせた叔母から連絡先を聞いてたので早速、電話をかけて自分と大叔父の関係を説明し、家まで来ていただくことにしました。急でしたが、電話してまもなく西条さんがお見えになり、ようやく初めて会うことができて、お礼もいえました。そこでシドニー訪問のいきさつを話し、額入りの写真もお見せしました。その時に、西条さんがご自分で調べた大叔父の略歴で、新聞では省かれていた詳しい事も教えていただきました。現物は還ってきませんでしたが、私のシドニー訪問を本当に喜ばれてたのを、今も覚えています。それから……」
「それから?」
「こう、おっしゃってました。『これがあと五年か十年遅かったら、もしかしたら何もわからなかったかも知れない。というのは、戦争を知る人たちは皆かなりの高齢になっている。だから今の時代が、人づてに何かがわかる最後のチャンスなんです』と」
「では、西条さんにも、この現物を見せないといけませんね。何といっても、これがあなたの大叔父のものだと最初に気づかれて、連絡してくれたかただ。きっと喜ばれるでしょう」
 私は隣の席に置かれた風呂敷包みを指し、微笑みながらいった。
「いえ、それが残念ですが、西条さんは亡くなられました。お会いした翌年の暮れに、急病で。大変お元気そうに見えたんですが……」
 彼はそういって俯いた。
posted by Yasuhiko Kambe at 17:47| シドニーより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月17日

『シドニーより』 連載第十七回

 私たちの乗った飛行機は、穏やかに夜間飛行を続けていた。夜も更けて機内のざわめきは一段と静まり、既に眠りについた乗客が多いようだった。私たちは控えめな声で、話を続けた。
「四年前に一度シドニーで退役軍人協会のメンバーと会った時、通訳を介して話をしたんですよね。同行した梅田さんというかたに、通訳をお願いして」
「ええ」
「すると、協会のメンバーのかたは最初に日章旗を見た時、なぜそれが日本兵の遺品だとわかったんだろう? 日本通で、日本語が少しできる人だったんですか?」
「いや、日本語は全くわかりませんし、日本通というわけでもありません」
「じゃ、どうやって?」
「それも実は、ちょっとした偶然があったそうです。お会いした席で、その辺の詳しいいきさつも聞きました。この旗を拾ったのは、最初に返還の相談を持ちかけた副会長のキャリーさんや会長のホワイトさんでなく、ビナードさんという協会のメンバーだったそうです。ビナードさんは復員後、協会の方に旗を預け、旗はクラブハウスの収蔵庫の奥にしまわれました。そうして何年、何十年と経つうちに、旗の存在が忘れ去られてしまった。それが六年前の第一報の前、キャリーさんがある時収蔵庫を整理していたら、この日章旗が奥から出てきたそうです。旗には収蔵庫へ納める時に当時のスタッフが書いた簡単なメモが付いていて、ビナードさんがボルネオへの出征時にこの旗を拾ったことが記されてました。で、キャリーさんはビナードさんに直接詳しい話を聞こうとしたんですが、もう数年前に他界されていた。そこで、ビナードさんのご家族へ連絡して生前、旗や出征当時のことを聞かされてなかったか尋ねたそうです。が、ご家族は『当時の詳しい話は特に何も聞いてない。その旗のことも初めて知りました』と。旗の存在にようやく気づいたものの、今度はこれが一体何なのかわからない。その時わかっていたのは、旗が日本の国旗で、出征したビナードさんが戦地のボルネオでそれを拾ったということだけです。キャリーさんもホワイトさんも日本語がわかりませんし、まして当時の日本の習慣を知る訳がありません。そうして考えあぐねていたある日、キャリーさんがご家庭でその話をしたそうです。その時、居合わせた家族の中にご長男とその奥様、奥様のお母様がいらした。その奥様は元々韓国のかたで、その時たまたまお母様がシドニーへ遊びに来ていたそうです。で、話を聞いていたご長男の奥様が『私の母は日本語が少しわかります』と」
「あっ。戦前、日本に併合されていた頃に学校で日本語を教えられた、その世代のかたですか?」
「そうです。それでお母様に旗の写真を見てもらい、『確かにこれは日本のもので戦争中、日本人にはこういう習慣があった。戦争へ行く兵士に、みんなで寄せ書きをして旗を贈っていた。だから、これは軍とか国のものでなく本当は兵士個人のものです』と。それを聞いたキャリーさんは考えた末、『本来個人のものなら、旗の持ち主へ返すべきではないか』と思われたそうです。でも、旗の文字が読める訳でもなく、持ち主へ返すにしてもどうやって探し出せばいいかわからない。そうして悩んでいたキャリーさんに、娘さんが『私の知り合いに日本人がいる。その人に相談してみたら』とアドバイスされた。その日本人が、井原さんだったんです」
「ほう……」
「その後、井原さんがキャリーさんとお会いして話を聞いたそうですが、初め井原さんもどうしたらいいかわからなかった。無理もないですよね。でも、旗に書かれた寄せ書きを見てるうちに、『岩手無尽』という文字に気づかれた。それで、ちょうど関係があった岩手中央高校を思い出して、学校側にこの旗のことを相談したそうです」
「なるほど」
「でも、後で井原さんから聞いたんですが、高校の方もいきなりいわれて、どうすればいいかわからなかったそうです。確かに岩手に関係があるのはわかったけど、どうやって持ち主を探したらいいのか、と。でも、結局悩んだ末に、『新聞に出してみたら何か持ち主から連絡があるかも知れない』と思いつかれた。それで陸中日報へ連絡を入れて事情を話し、取材に来てもらったそうです」
「それが六年前の第一報になったんですね。思いがけない偶然が重なって……」
「でも、偶然はそれだけじゃなかったんです」
「というと?」
「その時のクラブハウスからの帰りです。同行してもらった梅田さんの車の中で話をしていて、今回どうしてシドニーへ来ることになったのか尋ねられました。私はある映画を観たことがそもそものきっかけで、その映画がトニー・グリンという人のドキュメンタリーだったことを話し、逆に梅田さんに『トニー・グリンさんというかたは、こちらでは有名な人ですか』と質問したんです。それを聞いて梅田さんが、『知るも何も、そのかたの弟さんは私の知り合いです』と」
「えっ?」
 私は驚いて、彼に向き直った。
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2005年12月16日

『シドニーより』 連載第十六回

 六十年前の戦争という暗い過去が、その旗をめぐる人々の心を残酷に引き裂いていた。戦時中、日本軍はオーストラリア本土へも侵攻し、潜水艦によるシドニー湾奇襲やダーウィンなど大陸北部の街への空爆を行っている。米国同様、建国以来領土内に軍事攻撃を仕掛けてきた国は日本しかいない。前にも少し書いたように日本軍と連合国軍はインドネシアをはじめ東南アジア各地で戦火を交え、オーストラリア軍の犠牲者は三万人にものぼった。日本軍に捕まったオーストラリア兵捕虜の中には、後に『戦場にかける橋』として映画化された泰緬鉄道の建設にかり出され、非人道的な扱いを受けながら重労働に耐えた人もいる。当時を生きたオーストラリア人にとって、敵国とはドイツでもイタリアでもなく日本だったのだ。
 終戦後、日豪両国は友好国として関係を築いてきたが、そうした過去の辛い出来事を知らない日本人は意外に少なくない。それだけ今は両国の関係が良好で交流が盛んな証なのかも知れないが、戦争という負の歴史が時を経てなおも人々を苦しめていた。
 私はいった。
「その後シドニーへ行かれて、どうでしたか?」
「協会のクラブハウスへ行き、戦争資料室に現物が展示されているのを自分の目で見ました。当日はEYE―SETの井原さんが急に都合が悪くなったとかで、代わりに同僚の梅田さんというかたに通訳も兼ねて同行していただきました」
「遺品は、どんな風に展示されていたんです?」
「博物館とかであるように、ガラスの展示ケースの中できちんと保存されていました。訪ねるまでは、一体どんな状態になってるのかわかりませんでしたから、丁重に扱われているのを見て正直少しほっとしました」
「ガラス越しの対面ですか……。その時にはまだ返還されなかったんですよね。間近では見られたのに」
「ええ……でもその日、井原さんの連絡のおかげで、最初に返還の相談を持ちかけた退役軍人のキャリーさんという協会の副支部長のかたと、支部長のホワイトさんというかたにお会いできました。そのお二人と梅田さんを交えて、クラブハウスのカフェで昼食を食べながら、お話を伺いました。その席で、キャリーさんが『せっかくこうして訪ねて来てくれたのだから、本当はあなたにお返ししたい。でも今日、それはどうしてもできない。申し訳ないが、せめてその代わりに……』と詫びながら、自分で撮った旗の写真を額に入れて贈ってくれました」
「……」
「その痛いほどの気持ちや、話をするうちに受けた印象は今も心に残ってます。私もお二人に、『故人の遺品があることがわかっただけでも嬉しかった』と、梅田さんに通訳してもらって礼をいいました。私とお二人とは祖父と孫ほど歳が離れてましたが、とても紳士的に温かく歓迎していただいて、誠実さとか人間的な品の良さも感じました。それでいて飾らない人柄だということも、よくわかりました。なのに、こんなにいい方々が板ばさみになって苦しまれていたんだ、と。それに気づいた時、自分からは『すぐに返してくれ』とは言えなくなりました。自分が無理強いしたら、こんなにいい人たちを更に苦しめてしまう。本音を言えば確かに、すぐにでも返してほしいけど、それはこの人たちを新しい苦しみへ追い込むことになる。そんなことは、自分にはどうしてもできなかった」
 俯きがちに話す彼の目は、わずかだが潤んでいるように私には見えた。
「これはもう、時が解決するのを待つしかないと思いました。それに、こういう問題は『賛成多数・反対少数』で決めるようなことじゃない。『全員賛成』でなければ本質的な解決にならないだろう、と……」
 戦争で身近な人を亡くし、苦境を乗り越えながら辛く悲しい思いを抱えて生きる人々がいる。その人々に国や敵・味方の違いなどなく、彼らは共に心の奥で「時の解決」という一つのことを待ち続けている――私にはそう思えた。
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2005年12月15日

『シドニーより』 連載第十五回

「実は六年前にも、第一報続報があった時に会社のパソコンで検索してみたことがあって、その学校法人のサイトを見つけたんですが、いかんせん全文英語のホームページで……。私の拙い英語力では、全くお手上げでした」
 彼は苦笑した。
「でも、映画を観てシドニーへ行くことになった。それでもう一度自宅のパソコンで、その学校法人を検索してみたんです。最初に調べてから二年も過ぎているし、もしかしたら先方のサイトも何かリニューアルしてるかも知れないと思って。で、調べてみたら日本語のホームページが開設されていて、そこに連絡用のメールアドレスも掲載されてたんです」
「ほう。それで、その……メールとかを送ったんですか?」
「ええ、これなら日本語でメールを出しても大丈夫だと思いましたから。それに、どうせ行くなら、その前に連絡をとる努力はしてみようと。でも、内心は駄目でもともと、という気持ちでしたが」
「で、その返事は?」
「来ました。六年前の記事に出ていた井原さんから、直接」
「やっと何かが動き始めたんですね、その時に」
「日章旗の持ち主が自分の大叔父にあたること、実は近いうちにそちらへ行く予定があることなどをメールに書いて送りました。それと、続報の後にどうして返還されなくなったのか、それからそちらへ訪れた時にできれば現物を見てみたいということも書き添えました。しばらくして、井原さんから返事のメールが届きました。シドニーで現物を見たいという申し出は快く了解していただいて、保管先の退役軍人協会のクラブハウスで見られるようセッティングするとのことでした。あと、その折に返還の相談を持ちかけた退役軍人のかたも同席できないか連絡をとってみると書いてありました」
「しかし……それまで、あなたには何の連絡もなかったわけでしょう。当然といえば当然かも知れない。私ならそう思う」
 私は思わず本音をぶちまけた。が、彼は私の言葉を聞いて、静かに頷いただけだった。
「……あと、質問の方はどうなったんですか? なぜ、続報の後に返還が立ち消えたのかは?」
「そのことも返事のメールに書かれてました。でも、……それを読んで『ああ、やっぱり』と思ったんです」
「というと?」
六年前の記事の中では『返したい』と自発的に、好意的にいっていた。しかし、返ってこない。いったことと、していることが食い違ってます。それから、遺品は個人の持ち物ではなく、退役軍人協会という団体の所有物になっている。ということは、たぶん最初に返したいと言われたかたはそういう気持ちだけども、その後に協会の内部で反対があって意見がまとまらなくなったんじゃないかと推測してたんです。日本の会社とかでも、よくあるパターンですが」
「……」
「メールには自分の推測に近いことが書かれてありました。協会のメンバーの中で反対者が出て、意見がまとまらなくなってしまった、と。最初に返還したいといわれたかたも協会の親しいメンバー、つまり戦友から『自分たちを悲惨な目に会わせたかつての敵国に、そんなことまでするなんて信じられない。先に逝ったメンバーがどう思うか、考えたことがあるのか』といわれ、断念せざるを得なくなった。そればかりか、その時に受けた精神的なショックから一時体調を悪くされたとも書いてありました。さっき、『日本の会社でもよくあるパターン』だといいましたが、板ばさみですよね。自分の気持ちと、していることが結果的に違うわけですから。まわりの状況もあって、自分は不本意だけどそれを余儀なくされる。まして反対した相手が、戦場という極限を一緒に生き抜いて長年信じ合い続けてきた戦友だったら……。友人同士がお互い信じ合えるのは、価値観とか感性を共有してる、そういう暗黙の前提があって成立するものですよね。だから……」
「だから?」
「そのいきさつを読んだ時に何ていうか……、むしろ、そのかたに同情したいような、そんな気持ちになりました」
 その純朴な言葉に、私は何もいえなかった。もちろん呆れたのではなく。
「井原さんからのメールを読んで、『やっぱりそうだったんだ』と思ったし、ひどく落胆することもありませんでした。逆に確信を得たというか、だったらなおさら行かなければ、と思いましたね。そして、一旦は返そうと思われた方にぜひお会いして話だけでもしたいと思いました」
「返還が立ち消えたのは、そういう事情だったんですね……」
 と私はいい、溜息をついた。
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2005年12月14日

『シドニーより』 連載第十四回

 彼が口にしたトニー・グリン氏は戦後、かつての敵国だった日本への憎悪が母国で根強く残る中、奈良へ赴任し、さまざまな活動を通じて日豪両国の和解と友好を築くために奔走したカトリック神父である。氏の活動が縁でキャンベラ市と奈良市は姉妹都市の提携を結び、自身も生前に奈良市の特別名誉市民となった。が、姉妹都市提携の実現した翌年、一九九四年に奈良で帰らぬ人になっている。
 私は彼にいった。
「ああ、あのグリン神父ですか。何かで読んだことがあります。戦後まだ日本とオーストラリアの関係が今ほど進んでない頃、地道に友好活動を行っていたかたでしたね。もう亡くなられましたが。あのかたのドキュメンタリーですか。その映画は知らなかった」
「私もその記事を読むまで、実は映画もグリン神父のことも知りませんでした。でも、それを読んで映画を観てみたくなったんです。場所も市内で近かったし。そして、その上映会へ出かけました。その日、映画を観るまで特に何かを期待してたとか、そういうことは全くなかった。でも、映画を観て驚きました。グリン神父が生前、オーストラリアの兵士が戦争で持ち帰った日本兵の遺品、軍刀を返還するために懸命に活動されていたことを、その映画で知ったからです。そんな人がいたのか、と。さらに映画では、それ以前にライオネル・マーズデンという先輩の神父がいて、グリン神父に影響を与えたことも描かれてました。だとしたら、今はお二人とも亡くなられてるけど、ひょっとして誰かが現在もそうした活動を引き継いでるんじゃないかと思ったんです」
「なるほど……」
「映画では描かれてないけど、もしかしたらそうした方を、例えば監督とかスタッフのかたなら知ってるかも知れない、と考えました。そのかたに返還が立ち消えてしまった遺品のことをお話して、そうした活動を今も引き継いでる人をご存じだったら、何とか紹介していただいて返還の糸口を作れないか、と。上映が終わった直後、すぐに考えました」
「で、どうしたんです?」
「幸い、その上映会には監督さんも来ていて、二回の上映の合間に講演をされました。ただ、私が観たのは二回目の方で、映画が終わった後、上映会のスタッフに監督のことを尋ねたら、『講演の後、帰られました』と。それでも訳を説明して、何とか監督さんの連絡先を教えてもらいました。その次の日、さっそく電話をして、監督に事情を話してみました」
「そういう活動をしてる人を知らないか、尋ねた?」
「はい。でも、答えはノーでした」
 彼は少し落胆したような表情を見せ、話し続けた。
「『そういう人が今もどこかにいるだろうとは思うが、残念だけど個人的には心当たりがない』ということでした。でも、その時の電話で監督から、『実は夏の終わり頃にシドニーへ行く予定があるから、都合がよければ一緒に行ってみませんか?』とお誘いを受けたんです。その場では即答しませんでしたが考えた末、自分もシドニーへ行くことにしました。さっきお話したようにその少し前に独立したばかりで、仕事のスケジュールがある程度自分で調整できることもあって決断しました。それに、『こんな機会は一生のうち、そうはない。今度行かなくて、この先一体いつ行くんだ?』と思いましてね。連絡も音信もないなら、やっぱり自分から出向いて直接確かめるしかない。そんな考えもありました。でも結局、都合が合わなくて監督さんとはご一緒せず、単身で行くことになりましたが……。そんなきっかけで四年前、シドニーへ一度行きました。ちょうどオリンピックが始まる直前です」
「しかし、この日章旗の保管先には連絡をとらずに行ったんですか、その……」
「退役軍人協会ですか」
「そう、退役軍人協会へは連絡せずに。それとも、その映画の監督が協会とお知り合いだったとか?」
 彼は首を振った。
「いえ、そうではありません……。四年前の春、自宅で仕事を始める時、それをきっかけに自宅にパソコンを入れて、インターネットも引いたんです。それで、会社勤めの時より自由にネットへアクセスできるようになりました。で、六年前の新聞記事にあったアイセットという学校法人をオーストラリアの検索サイトで調べてみたんです」
 ITを未だに使いこなせてない機械オンチの私は、彼の話を漠然と理解するしかなかった。
posted by Yasuhiko Kambe at 15:00| シドニーより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月13日

『シドニーより』 連載第十三回

 機内の後方にあるトイレへ用足しに立った私は、席へ戻るため狭い通路を歩いていた。ちょうど私の席の前にもトイレがあったが、数人の乗客が順番待ちをしていたため、私は空いていた後方のトイレへ足を伸ばしたのだ。歩きながら見渡すと、既に眠りについている乗客もおり、機内の灯りも搭乗時より一段暗く落とされていた。
 自分の席へ戻ると、隣に座っている妻もうとうとし始めていた。私はシートに腰を下ろすと、声のトーンをやや低くして彼へ話しかけた。
「それで、六年前にあのニュースがあった後、返還の話が立ち消えてからはどうなさったんですか?」
 当時の記憶を思い出しながら、彼は話し始めた。
「そのあとは少し間が空きました、進展のないまま一年半くらい、そうしてましたね。こちらから連絡してみようかと何回か思いましたけど、それと行き違いで事が進展してることもあるかも知れないし、逆に話が複雑になるのも怖かった。だから、こちらからは何も……。私の方もその頃仕事が忙しくて余裕がなかったのは、いいわけかも知れません。でも、その間もずっと気がかりでした」
「あなたの気持ちは立ち消えなかった、と?」
 彼は頷いた。
「やはり自分の身内のことですからね。たとえ亡くなった者であっても、血のつながった身内には変わりありません。でも遺体も遺骨もなく、どこでどうなったのか何もわからない。そこへ、唯一の遺品が遠く離れた南半球の街にあることがわかったんです。赤の他人ではなくて、自分の身内のものが。確かにあるのがわかった以上、知らないふりのままなんてできなかった。何とかして実物を見て確かめて、何とかして日本へ帰してあげたい。そう思い続けてました」
 彼は自分の真情を打ち明けた。
「なるほど……。で、それから一年半過ぎた後に何か進展が?」
「はい。ちょうど四年前になりますが、ようやく連絡がつきました、オーストラリアのかたと」
「保管先から、ようやく何か連絡があったんですか?」
「いえ、それはなかったんですが……。実は私、四年前に一度シドニーへ渡ったんです。ふとしたきっかけで。その時に初めてお会いできました」
「というと、一体どうやってです?」
 私は身を乗り出した。
「その年の春に、私は勤めていた会社を辞めて独立しました。今は自宅でしがないコピーライターをしてます。その前の年に東京の実家を出て、千葉で一人暮らしを始めていました。それで退職後は、自宅が職場を兼ねるようになったんです。ちょうど、その仕事を始めた頃でした。自宅のポストに入っていた地元のフリーペーパーを、ある日偶然読んだんです。それを何気なく読んでたら、同じ市内で行われるチャリティー上映会の紹介記事を見つけました。記事には上映する映画の短い解説もあって、トニー・グリンというオーストラリア人神父のドキュメンタリー映画だと書いてありました」
 その人物の名前に、私は覚えがあった。といっても面識があったのではなく、ものの本などで得た氏の経歴を少し知っていたからだ。
posted by Yasuhiko Kambe at 15:18| シドニーより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月12日

『シドニーより』 連載第十二回

 初めに読んだ第一報には日章旗のアップの写真、次に読んだ続報には三人の日本人が家の居間で並んで語らっている写真が掲載されていた。続報の写真で中央に座っている老婆は戦死者の遺影を抱え、その右に年輩の男性、左に女性の姿があった。
「この写真の場所は、あなたの祖父母の家ですか?」
 私は新聞のコピーを読み終わると尋ねた。
「はい。真ん中にいるのが祖母で、その左の女性が私の母の姉、叔母になります。右側の男性は、記事に出てきた西条さんというかたです」
 と彼が答えた。
「今も覚えてますが、この知らせを聞いたのは北風の強い晩秋の寒い日でした。私は当時都内にある実家で暮らしてたんですが、勤めを終えて家に帰ったら、このニュースを妹から聞かされたんです。この新聞は岩手でしか発行されてませんからね。妹も親戚から電話があってニュースを知り、それを私に伝えたんです」
「それは、びっくりしたでしょう?」
「ええ。以前から大叔父のことはよく聞かされてましたが、それでも驚きました。ある日突然、家に帰ったら思いがけない知らせが届いてたんですから。遺骨も何もないものだと思っていたのに、半世紀昔の遺品がわかったなんて……何だか急に、その場でタイムスリップしたような感じがしました」
 彼は笑いながらいった。
「しかもそれが遠い外国の、南半球の国の事でしょう。それにも驚きました。翌日会社へ出勤してから、インターネットに接続している職場のパソコンで陸中日報のニュースサイトにアクセスしてみました。当時まだ家にはパソコンがなかったんです。それで、やっと自分の目でニュースが確認できました。このコピーは後で、親戚が保存していた原紙からとりました」
 彼の話を聞きながら、私はコピーを返した。それを手にしたまま、彼はさらに話を続けた。
「ただその時、身内ながら恥ずかしい話がありましてね。第一報が新聞に出ても、うちの親戚は誰も気づかなかったんです。呑気というか、何というか……。続報にあるように、こちらの西条さんが気づかれて、祖母の家に電話をくれて。それで初めて『うちのことだ』と」
「奇特なかたですね」
「ええ。西条さんから教えてもらわなかったら、永遠に気づかなかったかも知れません。本当に何度お礼をいっても、いい足りませんよ」
「そのかたは元公務員と書いてありましたが……」
「定年まで市立図書館に勤務されていたそうです。ただ、終戦直後の一時期に地元出身の出征兵士について市役所と共同で調査したことがあった、と。どこへ配属され、その後戦死したのか、それとも復員できたのかを期間限定で調べたそうです。でも、そういうシリアスな問題ですから、調査期間が終わってもわからない分をそのままにできなくて、その後もご自分で調査を続けていたと聞きました。それに、もともと西条さんのご実家は祖母の家の近くで、昔からの近所同士だったのも幸いしたようです。『ああ、あそこの伊藤さんのことだ』と」
「もし、西条さんというかたがいなかったら、本当にどうなってたでしょうね?」
「まったくです。たぶん今、ここでこうして話をしてません」
 私たちは顔を見合わせて笑った。
「確かに、西条さんはうちへ連絡してくれただけです。それだけのことですけど、それがなかったら私は今この旗を手にしてないと思います。この旗の返還は本当にいろいろなかたのご協力があって実現できましたが、どなたか一人だけの力でそうなったんじゃない。ヒーローとかスーパーマンは誰もいなかった。でも、誰か一人が欠けても実現しなかったと、私は思ってるんです」
 彼は静かにいった。
「あの続報が報道された後は、どうなったんです? 記事では最後に、岩手中央高校の先生が年明けにオーストラリアへ渡るので受け取ってくることもできる、と書いてありましたが……」
 私の問いかけに、彼は頷いてから答えた。
「そうなんです。親戚全員、そうなるものだと信じきってました。この報道が十一月の中旬で、年が明けたら遺品が日本へ還ってくる。あと一、二ヶ月だけ待てばいいんだ、と。その暁には改めて高校へもお礼を、と思いながら連絡が来るのを待っていました。ところが年が明けてひと月、ふた月が経ち、春が過ぎても一向に連絡がない。それでも辛抱強く待ち続けましたが、新しい連絡はどこからも来なかった」
「続報の話は立ち消えたわけですか?」
「結局、そういうことでした……」
 少し寂しげに彼はいった。私は、実の兄にあたる彼の祖父がどれだけ落胆したことだろうと思った。が、その直後、彼の祖父がちょうど六年前に亡くなっていたことを思い出した。
「おや? 確か、あなたの祖父は六年前に亡くなったといわれましたよね? それはこのニュースの後ですか、それとも……」
「いえ、前です。同じ年の五月でした。あと半年生きていたら、遺品のニュースを知って喜んだでしょう」
 と彼はいった。
 運命は時々、ちょっとしたいたずらをする。そこに悪意のあるはずはないのだろうが、私たちから見れば、それは時に惨さを感じずにいられなくなる。十数日とか半年とか、それが宇宙のスケールではほんの一瞬なのだとわかっていても――私はそう思った。しかしそれが、この旗のたどった不思議な運命の一部に過ぎないことを、その後の彼の話から知るのである。
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2005年12月11日

『シドニーより』 連載第十一回

陸中日報 一九九八年十一月十九日(木)付
《日章旗の「伊藤さん」、宮古出身の清治さんと判明》

 オーストラリア・シドニー市の退役軍人協会が保管している日章旗は十八日、宮古市出身の伊藤清治さんが昭和十八年の出征時に持参したものと分かった。清治さんはインドネシア・ボルネオ島で終戦直前に戦死。同市在住の義姉・伊藤タケさん(八三)は、「遺骨は戻らなかったが、思いもよらず形見が見つかって安堵した」と日章旗の五十五年ぶりの帰還を待つ。
 十八日付の本紙朝刊で日章旗に記された「伊藤清治さん」を探す記事を読み、清治さんの身元に気づいたのは同じ宮古市在住の元公務員・西条太一郎さん(六九)。個人的に調査している戦史研究の参考として厚生省などから収集した市内出身兵士の資料を元に、故伊藤宇八さんの次男と割り出した。
 同日午後、伊藤さんの遺族へ連絡したところ、義姉の伊藤タケさんが、「清治さんに間違いない。(昭和二十年八月三日に死亡したことを伝える)戦死公報と一緒に数本の遺髪と砂が届いただけだった。長年の空白が埋まるようだ」と確認。清治さんには兄と弟がいたが、既に他界している。
 タケさんの長女の横田真佐江さん(六〇)は、「清治さんの生きた証が半世紀ぶりに見つかって感無量」と話す。タケさん宅を訪れた西条さんも、「ボルネオでは日本とオーストラリアが戦った。国を超え兵士が大切に保管したのだろう」と日章旗のたどった経緯を思い描いた。
 伊藤清治さんは大正十一年七月生まれ。青年学校を卒業し、昭和十四年岩手無盡(現在のいーはとーぶ銀行の前身)に入社した。その後、十八年六月に横須賀海兵団へ入団し、九月に戦地へ向かった。日章旗には「岩手無盡」の文字があり、旗の寄せ書きは清治さんの出征の際に同僚がしたためた。
 日章旗に記された「伊藤清治さん」探しは、シドニー市の学校法人「EYE―SET(アイセット)」の常任理事・井原文枝さんが現地の退役軍人協会の支部会員から相談を受け、同法人の援助で留学制度を開始する盛岡市の岩手中央高へ協力を求めたことから始まった。同校の中原和義教頭は、「遺族が分かって、本当にうれしい。年明けには本校の生徒がシドニーの高校へ留学する予定で、教員も同行する。遺族に代わり日章旗を預かってくることもできるので、ぜひ協力したい」と話している。
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2005年12月10日

『シドニーより』 連載第十回

陸中日報 一九九八年十一月十八日(水)付
《日章旗の「伊藤さん」はどこに―豪の退役軍人が持ち主探し》

 「日章旗を返したい」――オーストラリア・シドニー市に住む退役軍人が、同市で長年保存されていた県人のものと思われる「日章旗」の持ち主を探している。県人の名は「伊藤清治」。盛岡市の岩手中央高(高木英生校長)の留学制度を支援するシドニー市内の学校法人を通じ、同校へ相談が持ち込まれた。
 手掛かりは日章旗に記された「岩手無盡株式会社」(現在のいーはとーぶ銀行の前身)の文字と、当時の同僚の寄せ書きだ。半世紀以上、日本の遥か南の地で残されていた「日章旗」に平和への願いを託し、「伊藤」さんの消息を探している。
 この日章旗はインドネシア・ボルネオ島でオーストラリアの軍人が発見し持ち帰ったもので、発見した場所や時期など詳しいことは現在わかっていない。先月、シドニーにある退役軍人協会の支部会員から同市内の学校法人「EYE―SET」(アイセット)の常任理事・井原文枝さんに、この日章旗の相談が持ちかけられた。井原さんは「岩手無盡」という文字がその旗にあるのを見つけ、同法人の援助で豪州国内の高校へ留学準備を進めている岩手中央高に協力を求めた。
 日章旗の右肩には「祈武運長久 伊藤清治君」と記され、中央の日の丸を囲むように戦後役員を務めた当時の同僚ら数名が、「攻撃精神」「進撃せよ」「勇武」など武運を祈る言葉を署名入りで書き添えている。いーはとーぶ銀行の記録によると、伊藤さんは昭和十八年九月三十日付で宮古支店を休職扱いとなったが、出身地や年齢、その後の消息や家族の所在については現在把握していない。
 井原さんによると、相談に訪れた退役軍人は初め、日章旗を返還することが相手に喜ばれるのか、あるいは逆に戦争の古傷を思い起こすことになるのか悩んでいたという。井原さんは、「兵士もその家族も、同じ戦争の犠牲者。日章旗を返還することで平和を分かち合い、両国の心の交流を築きたい」と伊藤さんに関する情報を待っている。
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2005年12月09日

『シドニーより』 連載第九回

 二杯目のコーヒーを飲んでいて、私はあることに思い当たった。先ほど読んだ新聞記事の中の一節である。
 記事には、一九九八年に日章旗の存在が新聞の報道で明らかになったと書かれていた。が、実際に戸上氏へ返還されたのは、それから六年後経った二〇〇四年である。その間の経緯について、記事では「遺族の返還の願いはかなわなかった」としかふれていない。旗の存在も持ち主の遺族もわかったのに、なぜすぐに返還されず六年もかかったのだろう。
 コーヒーを飲み終えると、私は彼を見た。彼も食後のコーヒーを飲み終わって寛ぎながら、座席の肘掛から突き出ている小さな液晶モニターをぼんやり見つめていた。
「さっき読ませてもらった新聞の記事だけど……」
 私は彼に話しかけた。
「ああ、はい。何かありましたか?」
「いや、ただちょっと気になったことがあってね。確か記事には、九八年に旗の存在が報道されたと書いてありましたよね」
「ええ」
「それから今日まで六年が経ってるんだけど、なぜそんなにかかったんですか? 全てがわかったなら、どうしてすぐに返還されなかったのかなと思ってね」
 私は自分の疑問を投げかけてみた。
「実は最初、私も親戚のみんなも、すぐに還ってくるものだと思い込んでたんです。でも、そうはならなかった。本当は初め、すぐに返還する前提で、事が進んでたんですが……」
 彼は苦笑しながら答えた。
「そうならなかったのは、なぜです?」
 私の問いに、彼はちょっと悩むような表情を見せた。
「話すと少し長くなりますが……」
「私は構いませんよ。日本へ着くのは明日の朝です。時間はまだたっぷりある。でも、あなたがもう寝たいのなら話は別ですが」
「いや、私は宵っ張りですから大丈夫です。ただ、短く話をまとめるのはちょっと難しいな……。そうだ。当時のことが載った新聞のコピーがありますから、まずそれを見てもらった方がいいでしょう」
 そういうと、彼は再びバッグの中を探し始めた。目当ての物はすぐに見つかり、彼は書類の入ったクリアファイルを一つ取り出した。そして、その中から新聞のコピーを二枚抜き取り、私へ差し出した。
「これが六年前、最初に報道された時の新聞のコピーです。返還の席で当時のことが話題にのぼったら、向こうのかたに見せるつもりで持ってきたんですが」
 私は、その二枚のコピーに目を落とした。それぞれ別の記事であることが、見出しと掲載写真から一目でわかった。新聞名は岩手の人間にとって馴染み深い、地方紙の「陸中日報」だった。
「ああ、『陸中日報』に載ったんですね」
「ええっと……こっちが第一報の記事で、そちらがその続報です」
 彼は新聞のコピーを示しながらいった。
posted by Yasuhiko Kambe at 17:17| シドニーより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月08日

『シドニーより』 連載第八回

 私はようやく言葉を続けた。
「いえ、ありません。戦死の公報と一緒に、砂と遺髪が入った小さな箱が届いただけだったそうです。それを遺骨代わりに墓へ納めたと聞いてます」
「やはりボルネオは、激戦の地だったんですね……」
 彼は頷いた。
「大叔父はボルネオ北部の沿岸にある、タラカン島という小さな島で戦死しました。そこには日本軍の飛行場があって、その警備兵として配属されたようです。ただ、そもそも初めは経理担当の主計兵として出兵したようですが」
「ああ、……銀行員だったからですね」
「そう思います。初めはボルネオ南部のバリクパパンという拠点に配属されて、でも二ヶ月くらいでタラカン島の警備隊へ異動になったようです。昭和十八年の暮れに。経理畑でこれなら銃を撃たずに済みそうだと思いきや、ですね」
 彼は半分冗談交じりにいった。
「その島で最期を迎えるんですが、昭和二十年の五月に連合国軍の上陸攻撃が始まって、六月の中旬には追い詰められて遊撃戦、ゲリラ戦になったみたいです」
「というと?」
「つまり、日本軍の一部隊として公式に作戦や命令を実行できなくなった。本部と連絡もとれなくなったが、それでも勝つまでは散り散りになってでも戦闘を続けろ、というわけです」
「なるほど……」
「それが二ヶ月続いて、八月三日を迎えた後、終戦になったんです」
 日本の遥か南のジャングルの中で食べるものも食べられず、何の支援もなく戦闘を余儀なくされた二ヶ月間。いつ姿を現すか知れない敵から身を潜め、いつ仕掛けてくるか知れない敵の攻撃に神経を尖らせながら、必死で熱帯雨林の中をさまよい続けた兵士たち――今こうして文明の粋ともいえるジェット旅客機に乗り、安穏に旅をしている我々現代人にとって、その過酷さを推し量るのは難しい。六十年という時の流れが、あまりにも時代を変えてしまっている。
「祖父は生前、『一度ボルネオへ行ってみたい』とよくいってました。弟の遺骨を探しに行きたかったのかも知れませんね」
 と彼はいった。
 安穏な現代流の旅をさらに演出しようと、コーヒーのお代わりを勧めるキャビンアテンダントがまわってきた。私は二杯目を申し出た。
posted by Yasuhiko Kambe at 16:47| シドニーより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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